今治城は築城名手高虎の手腕が発揮された最新鋭天守
関ヶ原での戦功として伊予を得た藤堂高虎は、瀬戸内の覇権を狙うとともに、旧豊臣方の動向を監視するため海陸の要地・今治浦に城を築城する。土地は砂浜で地盤が弱いため、砂に杭を打ち、その上に石垣を積むという手法が取られた。このとき普請を担当した木山六之丞は、石材の調達に苦労し「船で石を運んだものには、同じだけ米を与える」との令を発し、無事石垣を完成させたといわれる。
一般的な呼び名は今治城だが、海沿いの城という意味の「吹揚城」や美しい砂浜のお城という意味がある「美須賀城」とも呼ばれる。美須賀城の由来には、「平城で容易に場内が見透かされたから」という説もある。
縄張は高虎の築城によくみられる高石垣と、三重に巡らされた堀が目立つ。堀は幅広に造られ、海沿いに建つ城だけに海水が引き込まれていた。また、本丸に築かれたのは日本初ともいわれる層塔型の五重天守で、破風を持たず、内部に武者走りを設けるなど、当時の最新技術が取り入れられた。
天守は高虎の転封時に解体され、丹波亀山城へ移された。現存のものは、残された絵図をもとに復元されたものだ。