佐賀城は佐賀藩鍋島氏の居城で佐賀の乱では激戦の舞台
佐賀城は佐賀平野のほぼ中央に位置する平城で、かつて肥前から九州北部にわたって勢力を拡大していた龍造寺家の居城・村中城がその前身となる。
島津氏との「沖田畷の戦い」で「肥前の熊」こと龍造寺隆信が敗死したあと、龍造寺家は衰退し重臣であった鍋島直茂が家督を継承。その子の勝茂が初代佐賀藩主として認められると慶長日年(1608年)より本丸の改修が開始され、3年後に五重の天守を持つ城として完成することとなった。
佐賀城は敵の攻撃を受けた場合、八反井樋と今宿江をせき止め、城下を含めた周辺地域を天守と本丸の一部を除いて水没させることで、敵の侵入を阻む仕組みになっていたとされる。また、堀を囲む土塁にマツやクスノキが植えられ、遠ざかるにつれて天守が沈んでいくように見えたことから「沈み城」の別名でも呼ばれた。
明治7年(1874)の「佐賀の乱」では反乱軍に一時占拠されるなど激戦が繰り広げられており、現在も鯨の門には当時の弾痕が残っている。
佐賀城の豆知識
一度も櫓が建てられることがなかったという南西偶櫓台だが、城内で唯一となる亀甲形に整えた切り石を積み上げていく「亀甲乱積」という技法て作られた石垣となっている。