名古屋城にて家康による天下普請の命が下る
勇壮な金鯨をいただいた大天守を持つ名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城として威容を誇る。明治に入って廃城を免れたものの、第二次世界大戦末期、昭和初年(1945)5月14日の米軍の空襲により、天守と本丸御殿、東北隅櫓などを焼失した。
名古屋城を築いたのは、徳川家康である。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、なお隠然とした影響力を持つ豊臣秀頼の存在を危倶し、大阪城の豊臣氏に対する牽制、関東防衛の一大防衛線の構築の必要性を痛感した。
清洲城にいた豊臣秀吉子飼いの福島正則を安芸に移し、第九男の徳川義直を城主に据えた。しかしながら清洲城は規模が小さく、水害もあったために、新しい城を建てる必要があった。名古屋、古渡、小牧の候補地の中から、廃城となっていた那古野城のあった名古屋台地が選ばれた。名古屋台地は北面と西面は高さ叩メートルの崖で、その先は広大な湿地、さらに庄内川、木曽三川と続く天然の要害であったためである。また、南面方向には平地が広がり、城下町を築くことができたのも、目的にかなった地であったようである。
家康に天下普請を命じられたのは、秀吉ゆかりの加藤清正、福島正則、池田輝政ら却家の大名である。家康に対する忠誠を試し、これら大名の財力を削ぐのが目的でもあった。慶長日年(1610)に工事は始まり、慶長口年(1612)には天守や櫓類が完成、元和元年(1615)には徳川義直が本丸に入り、翌年二ノ丸御殿が完成した。
名古屋城は重厚さと優美さを併せ持つ大天守
縄張は、天守が建つ本丸を囲んで、西北に御深井丸、東から東南に二ノ丸、南から西に西ノ丸があり、さらにそれらの曲輪を広大な三ノ丸が凹の字に取り囲み、防御する輪郭式縄張である。現在、三ノ丸跡地には、名古屋市役所、名古屋高等裁判所などが立っているが、縄張と外との境にあたる場所に、石垣の一部と空堀が残っている箇所があり、往時の城域の広がりを実感することができる。
天守は連結式天守で、大天守と小天守は橋台によって結ぼれている。大天守は外観五層の典型的な層塔型で、非常に安定感・重厚感がありながら、砂田脚が最も多い天守といわれ、千鳥破風、唐破風の優美な重なりが、きめ細やかな印象も与える。
大小天守は昭和弘年(1959)の外観再現のコンクリート造りだが、本丸の東南、西南、御深井丸の西北の隅櫓は、戦禍を免れて当時の姿を今にとどめている。いずれも重要文化財に指定されていて、趣のある姿を楽しむことができる。それぞれに形や破風が違い、その違いを確認しながら歩くのも一興である。
絢嫡な本丸御殿を復元本丸御殿は、約3000平方メートルの平屋建て。当初は、藩主の義直の居室・政務の場所だったが、その後、将軍の上洛の折の殿舎として使用された。
近世城郭御殿の傑作として、国宝の京都・二条城の二ノ丸御殿と並び称されたが、第二次世界大戦の空襲で焼失した。現在、襖絵、杉戸絵、天井板絵など1047面が残り、重要文化財に指定されている。
空襲を危倶し、疎開していたためである。本丸御殿は、最近まで姿をとどめていたこともあり、古写真や実測図などの資料が多くあり、忠実に復元されることになった。
表書院、対面所、御湯殿書院、上洛殿などが障壁画、襖絵などの模写とともに復元、公開される。天守と御殿が建ち並ぶことで、城郭としての風格が完成するということで、楽しみである。
織田信長の居城でもあった那古野城
名古屋城の前身は、戦国時代に駿河の守護である今川氏が築いた那古野城で、現在の名古屋城二ノ丸庭園付近に位置していた。二ノ丸には那古野城古碍が建てられている。今川氏の一族の民単を城主としたが、享禄5年(1532)、織田信秀(信長の父)によって氏豊は追放された。織田信秀の後を継いで、信長が城主となり、天文24年(1555)、清洲城に移るまでこの城で成長した。信長の後、叔父の織田信光、家臣の林秀貞らが城主となったが、天正10年(1582)に廃城となったとされる。
数奇な運命をたどった金鱗
最初に作られた金鯨の高さは、雄が2.57m、雌が2.51m。寄木の木型に鉛板を貼り、鱗型の鋼板をとめ、その鋼板に金の延べ板をかぶせて造られた。使われた金は、慶長大判1940枚、重さ320キ口であった。ちなみに現在の復元された続は、ブロンズの原型に漆を焼き付け、銅板に金板を貼りつけた鱗をつけた。慶長大判の金の純度は高く、藩は財政困窮の際に、鱗を鋳なおして使い、そのたびに鱗の金の純度は下がっていったという。