上田城は徳川の軍勢を2度退けた真田昌幸・幸村親子の城
上田城は尼ヶ淵の断崖を利用して築かれた堅固な平城である。その堅城ぶりを世に知らしめたのは、天正13年(1585)のこと。徳川家康率いる7千の軍勢に対し、上田城を守る真田昌幸、幸村親子は、2千の兵にてこれを討ち破ったのである。さらに慶長5年(1600)には「関ヶ原の戦い」へ向かう徳川秀忠軍3万8千を、わずかな兵で5日間足止めすることに成功している。
徳川の時代になると建物は取り壊され、堀も埋め立てられたため、往時の姿を知ることができない。近年の調査で桃山時代の特徴的な金箔瓦などが出土している。本丸には7基の櫓が建てられていたようだ。
元和8年(1622)に仰石忠政が入封すると、忠政は上田城の復興を開始する。これにより上田城は近世城郭へと整備されるが、忠政の死後、工事は中断され、本丸御殿などは築かれぬままに終わった。その後、城は松平氏7代に渡って世襲されるが、幕末までその姿を変えることはなかったようである。
現在も本丸や石垣が残り、新幹線の車窓からもその姿をみることができる。また忠政が築いた3基の隅櫓も現存じ、いずれも県宝に指定されている