岐阜の象徴ともいえる織田信長ゆかりの城
織田信長が「天下布武」を掲げ、天下取りへの意思を明確に示したのは、岐阜城へと本拠地を移したころであった。天下取りの足がかりとなった城だが、その起源は鎌倉時代、建仁元年(1201)と大きく時代をさかのぼる。当時は城が築かれた山の名前から「稲葉山城」と呼ばれていた。
室町期には一旦廃城となるが、室町末期に美濃守護代。斎藤利永により修復された。戦国初期の混乱から、城主は斎藤道三へと移り、山城として改修される。しかし防衛、籠城のためよりも、景観や居住性を重視した城となっており、事実攻めにくくはあるものの史上7度も攻め落とされている。
斎藤氏の時代にも信長により2度攻められ、1度目はこれを退けたが、2度目は木下藤吉郎盆豆臣秀吉)の場手への奇襲により落城の憂き目にあった。この時に奇襲成功の合図として打ち振られたのが「ひょうたん」で、秀吉の馬印・千成びょうたんの由来となっている。
永禄10年(1567)には信長が稲葉山城に本拠を移し、その後「岐阜城」へと名を改めた。当時、信長の元にいた宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』には、岐阜城の華麗さが事細かに書き記されている。それによると、第一層の大座敷には金箔が貼られ、天守第二層には大奥、第二層には閑静な茶室が儲けられ、最上階となる第四層は展望台となっていたという。信長はのちに安土城を築き居城を移すが、これも岐阜城がモデルとなっている。
徳川の時代に廃城に明治期に再建される
その後、岐阜城は信長の子である信忠の居城となるが、本能寺で明智光秀の謀反に逢い父子ともに殺される。第三子・信孝が入るが、秀吉に背いたため攻められ敗死し、その後は池田輝政、豊臣秀勝、織田秀信と主を替えた。
そして、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、西軍に付いた秀信を池田輝政、福島正則らが攻め落とす。その翌年には廃城とされた。これよりのちの世には、もはや山城は必要なしとされたのである。現在金華山(稲葉山)山頂に建つ天守は明治43年(1910)に再建され、その後火災により焼失するが、再び建てられたものだ。明治期の再建は、日本初の「観光用天守」であった。
山頂への道となる大手道には斎藤氏時代に整備されたと見られる堀切、石垣も残るが、当時を偲ばせる史跡などは多くはない。しかし、城下を見下ろす長良川や伊勢湾をも眺望できる絶景と絢爛豪華な復興天守は、現在の岐阜のシンボルとして愛されている。
岐阜城の豆知識
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、岐阜の町の様子も記されている。それによると、町の人口は8千~1万人ほどで、古代オリエントの都市バビロンを紡彿とさせるほど繁栄していたという。