現在日本では12の天守が往時の姿を留めている。江戸時代初期の最盛期には天守の数は100を超えていたとされている。しかし、物見櫓としての実はあるもののそれ以外に実用的な用途はなく、それどころか攻撃目標とさえなってしまう天守が、なぜこれほどまでに数多く造られるようになったのだろうか。
その大きな理由は諸大名たちの成信にある。大名たちは自分の力を誇示し、また家臣や領民たちを鼓舞しようとする思いが、権力の象徴ともいえる天守造営に駆り立てたのだ。そのため、権力と天守の大きさは比例する傾向にあった。
ちなみに、天守が造られるようになったのは戦国時代に入ってからで、諸説あるが初めて天守が造られたのは永正17年(1520)、摂津の伊丹城といわれる。その後、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて近代城郭の築城ブームが到来。各地に天守が築かれた。これに伴い城の構造も変化していき、もともとは天守が単独で築かれていたが、やがて天守を守るために櫓や曲輪が配置されるようになっていく。また、天守の外観も時代によって異なり、時代が新しくなるにつれシンプルでバランスのよい建物へと変化していった。
江戸幕府による幕藩体制が確立すると築城ブームは終焉を迎え、天守が築かれない城や、焼失後に再建されない城も多くなる。幕府の「―国一城令」がその一因であるが、見栄にお金をかけるほど、藩政が豊かで無くなったのも大きいだろう。