千早・赤坂城の戦い

千早・赤坂城の戦いとは?

元窓の後、弱体化した鎌倉幕府から政権を奪還しようと後醍醐天皇が動いた。しかし、計画が幕府側に漏れ捕らえられてしまう。その一方で、同調して蜂起したのが楠木正成であった。

鎌倉幕府軍100万人 VS 楠木正成1000人

赤坂城の戦い

元弘元年(1331)、後醍醐天皇のクーデターに楠木正成は赤坂城で呼応。鎌倉幕府は計画を未然に防いだものの赤坂城における正成のゲリラ戦法に苦戦。10月21夜に正成軍は火を放ち、戦いの幕を引く。

千早城の戦い

元弘2年(1332)、正成は突如下赤坂城を奪い返し、下赤坂城(前衛の城)、上赤坂城(本城)、千早城(詰城)に活用し、鎌倉幕府軍を翻弄し続けた。千早城の戦いは100日戦争とも呼ばれ、鎌倉幕府滅亡の契畿となる。

戦いの作法を無視した楠木正成

千早城での戦いは、鎌倉武士たちにとっていつもと勝手の違うものであった。鎌倉時代の武士たちの聞には、戦いに際して「やあやあ、われこそは…」などと名乗りを上げ、正々堂々と戦うなど戦いの作法があった。しかし、鎌倉武士の出ではない楠木正成は、そんな作法を無視してしまう。

千早城を取り囲んだ軍勢は、太平記によれば数百万人騎。鎌倉武士は周囲1里(約4キロメートル)におよ、はない小さな城など簡単に落せると考えていた。

鎌倉武士たちが盾をかざして攻め上がれば、守る城兵たちは大石を投げ下ろして盾を打ち砕き、矢を射掛ける。このため一日516千を上回る死者が出てしまった。火矢を放てば水で火を消してしまう。前回の赤坂城の戦いの時に正成は水不足で降伏している。今度も戦いの舞台は同じ山城である。

きっと水が不足して水の補給のために山頂の城から兵たちが下りてくるに違いない。そう考えて城兵を待ち伏せすれば、逆に夜襲をかけられて鎌倉武士たちは混乱した。また、がらくたで等身大の人形を作って甲胃を着せ、敵から見えるところに並べ、夜が明けるとともに勝聞の声を上げた。鎌倉方がこの兵を本物と思い射ょうと集まったところに大石を投げ落とす。

この石にあたって300人余りが死に、500人以上が大けがをおったという。さらには大木を城から落とし、鎌倉勢が右往左往しているところを矢で攻撃する。

鎌倉武士たちも手をこまねいているだけではなかった。一気に城内に攻め込むため、京都から大工を呼び寄せて、長い梯子を作らせた。この梯子を城の間にある谷に橋代わりに架けた。この梯子に正成軍は火をつけ、油を滝のように注ぎ、鎌倉方の兵ごと梯子を谷底へ落とす。

その一方で野武士どもに働きかけて攻め手側の兵糧を運ぶ者たちを襲わせ、兵糧だけでなく着ているものも奪った。こうして鎌倉方の軍勢を100日あまりも釘づけにしたのだ。

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