明石城は壮麗な白漆喰塗りの櫓と土星が残る
徳川の世に変わり、天下も落ち着きをみせてきた元和3年(1617)。「大坂夏の陣」での戦功から明石へ転封となった小笠原忠真は、2代将軍秀忠より新城建築を命じられた。そして、同じく姫路へ転封していた義父・本田忠政の協力を受けて築かれたのが、明石城である。
幕府による明石城建築の狙いは、西国外様大名の監視にあった。もともとこの地には船上城があったが、その縄張は貧弱であり、西国の備えとしては心許ないとされたための新城築城といわれる。家康と深い血縁を持つ忠真をこの地に置いたことからも、西を幌む要地であったことが伺えるだろう。
明石海峡を望む平地と、小高いEを利用して築かれた平山城で、三重の連郭式縄張を持つ。圏内有数の大きさを誇る天守台はあるものの天守は築かれず、本丸の四隅には三重櫓が置かれた。これらの櫓のうち、坤櫓、巽櫓と呼ばれる櫓は現在でも残されている。どちらの櫓も白漆喰で塗られた壮麗な櫓で、やはり白漆喰塗りの土塁で繋がれており、土塁と両櫓を見渡す眺めは実に壮麗である。阪神淡路大震災で一部が倒壊したが、現在は修復されている。