千早城は楠木正成が寡兵で守った中世の要害
鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した楠木正成の居城が千早城である。金剛山一帯の尾根に築かれ、四方を谷に固まれた要害に建つ山城で、下赤坂城、上赤坂城の支城を持つ。後醍醐天皇の呼びかけに応じて参じた正成が元弘2年(1332)に築き、鎌倉幕府軍を相手に奮迅の活躍を見せた。
下赤坂城が敵と相対する出城的役割を担い、上赤坂城は本丸、その詰めの城として作られたのが千早城となる。
後には南北朝時代、正成の孫正勝の代に、北朝方の畠山基国に攻め落とされ、その後廃城となっている。現在は金剛山中に曲輪や空堀などの跡が残る。
正成のゲリラ戦法
正楠木正成と鎌倉幕府軍で争われた「千早城の戦い」。幕府軍の100万ともいわれる大軍に対し、1000人ほどの寡兵で寵もる楠木軍だが、投石、投木や険しい地形を利用したゲリラ戦法で守りきり、その隙に新田義貞が鎌倉を攻め落とした。