伏見城は秀吉・家康とふたりの天下人が拠った城
伏見城とは豊臣秀吉、徳川家康の築いた複数の城の総称である。まずは文禄元年(1592)、秀吉が指月山に築いた「指月山伏見城」。そして、この城が慶長伏見地震により倒壊すると、木ぽた幡山に場所を移して慶長2年(1597)に「木幡山伏見城」が再建される。
指月山伏見城は秀吉による朝鮮出兵が開始された直後の城で、秀吉に待望の男子が産まれたために、隠居地として築かれたといわれている。指月山伏見城も茶聖・千利休の趣向を取り入れた絢嫡な城、だったが、続いて築城された木幡山伏見城はそれを越える安土桃山時代の技術、文化の粋を集めた絢燭な城となる。東楽第をはじめ多数の建物が移築され、秀吉は残りの生涯をこの地で過ごしている。
秀吉の死後は豊臣秀頼が入った後、家康の居城となる。しかし「伏見城の戦い」によって、城も城下もすべて焼失し、慶長7年(1602)に家康によって木幡山伏見城が再建される。一説によると、家康は、この城で征夷大将軍に任命されたといわれる。だがその城も「一国一城令」によって廃城となり、天守や櫓、門などは全国の城や寺社に移築されている。