八王子城は豊臣秀吉軍の猛攻の末に罪なき人々が命を落とす
戦国時代末期、武田氏との争いを繰り広げていた北条氏康の次男・氏照は、本拠としていた平山城の滝山城を離れ、深沢山の山頂に守りに適した山城を築城した。これが八王子城である。当時、城は山城から平山城、平城への転換期に差し掛かっており、八王子城の築城は時代の流れに逆行する行為であった。だが、古い山城には見られない石垣が用いられるなど、ところどころに近世城郭の片鱗も覗かせている。
八王子城は大きく本丸がある山頂の要害地区、御主殿などが建てられた山麓の居館地区、城下町などの根小屋地区に分けられる。北条氏が築いた山城のなかでは最大規模のもので、まさに要害と呼ぶに相応しい造りだったと想像される。しかし、築城から数年後の天正18年(1590)、羽柴秀吉の軍勢によって1日で落城し廃城となった。
秀吉軍が攻め入った際に、北条家の主力は小田原城へ集結しており、八王子城には僅かな兵と、女、子どもしか残されていなかった。逃げ場を失った彼女たちは、御主殿の滝に身を投げ、滝が流れ込む川は3日3晩血に染まったといわれている。