萩城は幕府の仕打ちにめげず毛利輝元が築いた堅城
広島城を築き、吉田郡山城から本拠を移した毛利輝元だが、「関ヶ原の戦い」で西軍に味方したために、中園地方8ヵ国120万石から周防・長門2ヵ国初万石へと削封となる。広島城を明け渡した輝元が、新たな居城として築城したのが萩城であった。
もともとは新城築城にあたり、山口の鴻ノ峰を希望していたとされるが、合わせて三田尻(現在の防府)の桑山、萩の指月山と3つの候補地を幕府へ提出したところ、もっとも不便な萩が選ばれた。指月山は日本海に突き出した標高143mの小山で、ふもとには阿武川河口のデルタが広がっている。
指月山の山頂に詰丸が築かれ、山麓に本丸・二の丸・三の丸を配した平山城で、山の名前から「指月城」とも呼ばれる。主要部は本丸に五重天守が鎮座する山麓だが、詰丸にも6基の櫓が建てられ、いざという時には、詰丸へ逃げ込む手はずだったようだ。城下町も良く発展し、現在も残る武家屋敷や町屋が往時の面影を漂わせる。
明治維新後に天守をはじめとした建造物は解体されるが、石垣や堀は保存され、現在「萩城跡指月公園」として整備。天守台など多くの遺構が残る。
萩城の豆知識
萩城は毛利氏によって明治維新まで、世襲されるが、やはり萩は不便だったようで、幕末には山口へ城が移されている。幕府に内密の行動だったこともあり、「山口城」ではなく「山口屋形Jと呼ばれた。