広島城は聚楽第(じゅらくだい)を手本にした中国地方屈指の名城
毛利輝元の居城であった吉田郡山城は、戦国末期には時代遅れの城となっていた。輝元がそれを痛感したのは天正日年(1588)、聚楽第で豊臣秀吉に謁見したときで、翌年から広島城の築城を開始する。
築城場所に選ばれたのは広島湾からほど近い、太田川の河口に広がるデルタ平野で、瀬戸内への進出を脱んでのことであった。しかし、地盤の弱いデルタに城を築くのは容易ではなく、完成までに10年が費やされ、縄張は聚楽第(じゅらくだい)を手本にした。
やがて「関ヶ原の戦い」を経て輝元が転封となると、福島正則が入城する。正則は城下町を整備して支配を固めるが、石垣を無断で改築した罪を問われ改易となる。代わって浅野氏が入り、幕末まで世襲された。
明治以降も本丸に築かれた望楼型の五重五階天守は残されていたが、昭和却年(1945)に原爆によって倒壊。現在のものは同33年の再建である。ほかにもこの丸表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓などが再建されている。往時の天守は小天守を2基連ねた連結式天守で、再建されたものとは少し趣を異にしている。
広島城の豆知識
石垣の無断改築で改易となった福島正則だが、太田川が氾濫し、城内まで浸水したためにやむなく改築を行ったといわれている。さらに改易という重い沙汰には、幕府の豊臣恩顧の大名排除の思惑があったという。