人吉城は壮大な歴史を持つ相良氏代々の居城
日本三大急流のひとつに数えられる球磨川が城の石垣を洗う人吉城は、遠江国・相良の出身で人吉荘の地頭に任じられた相良長頼が築城。以後、人吉城は廃藩置県までの約700年に渡り存続することとなる。
人吉の主となった長頼がまず取り掛かったのは、城館の修築であった。この工事の最中に三日月型の奇岩「織月石」が発掘されたため、人吉城は「三日月城」「献配娯」といった優美な別名で呼ばれることもある。
近世人吉城の本格的な築城は、初代長毎によって天正口年(1589)、豊後から石工を招きはじめられた。慶長6年(1601)には本丸・二の丸・堀・櫓御門まで完成し、同ロ年からは川沿いの石垣を築きはじめる。その問、豊臣秀吉による「文禄・慶長の役」や「関ヶ原の戦い」への出兵等で普請は遅れたものの、寛永日年(1639)にようやく完成をみた。
明治叩年(1877)の西南戦争では西郷軍の拠点となり、石垣を除いてほとんどが破壊された。城跡は人吉城公園として整備され、平成日年(2005)には人吉城歴史館が開館した。