小倉城

小倉城は陸海の交通を制する九州支配の重要拠点

関門海峡を挟んで九州と本州を結ぶ陸海交通の要衝であるという重要性から、小倉城は文永年間より何度も戦いによって所有者を変えてきた。豊臣秀吉の九州平定後には毛利勝信が城主の座につき、現在にみられるような縄張の城郭となる。しかし「関ヶ原の戦い」で西軍方についた毛利氏は減封。代わりに豊前国を領することになった東軍方の細川忠興が入城し、慶長7年(1602)より7年の歳月をかけて小倉城を改築して自らの居城とした。

さらに寛永9年(1632)より小笠原氏が豊前小倉藩日万石の藩主としてこの城を受け継ぎ、西国の譜代大名筆頭として、九州外様諸藩を監視する拠点として存在し続けた。

切石を使わない野面積の石垣と堀に固まれた平城で、四重五階の天守は四階の屋根のひさしが無く、最上階である黒く塗られた五階部分が張り出している「南蛮造」という外観が特徴。江戸中期に焼失し、昭和に復元されるまで再建されることはなかった。

長州征伐のハイライト小倉口の戦いの舞台

幕府軍と長州藩が戦火を交えた「第二次長州戦争」では、幕府老中の小笠原長行が総督としてこの小倉城に入り九州諸藩からなる小倉口の幕府軍を指揮した。しかし、幕府軍は高杉晋作の率いる奇兵隊の攻撃によって各所で敗退。さらに将軍・徳川家茂死去の知らせを受けた小笠原長行が単身離脱するに至って、小倉城には火が放たれ落城。その後も長州藩の占領下に置かれたまま明治維新を迎えることになった。

小倉城の豆知識

現在見られる四重五階の天守は昭和9年(1934)に再建されたもの。特徴的な「南蛮造Jなどはそのままだが、旧来の天守は破風のない層塔型だったりと、往時のものとは形状はかなり異なっている。

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