長浜城は羽柴秀吉が初めて築いた商業重視の城
羽柴秀吉は天正元年(1573)の浅井長政・小谷城攻めの武功により、浅井領一帯を織田信長から与えられ、それから3年ほどは小谷城に入る。しかし山城であった小谷城の不便さから、琵琶湖のほとりに新たな城を築き、小谷城下も新たな城下へと移す。これが秀吉の初めて築いた城となる長浜城である。
この城が築かれた最大の理由は、琵琶湖の水運を最大限に活かすことであった。城下にはふたつの港があったといい、また直接城内まで船の出入りが可能だった。安土城を中心に琵琶湖畔に家臣を配置し近江を治めようとする、信長の方針とも一致していた。
築城の際には廃城となった小谷城の資材が使われ、そのため現在の小谷城は石垣などが残るのみとなっている。しかし長浜城も元和元年(1615)には廃城となり、建築物は彦根城建築のために使われた。現在残る天守は昭和田年(1983)に建てられた模擬天守で、犬山城・伏見城の天守を参考に作られた。
秀吉以外に勝家、一豊も治めた長浜城
長浜城を築いた羽柴秀吉だが、当時は織田信長による天下取りの真っ最中で、腰を落ち着ける聞はなかったようだ。領内のことは宿老の杉原家次などに任せきりとなっていたが、秀吉の城下町運営の基礎を確立した城である。「本能寺の変」後は近江を領有した柴田勝家が入るが、秀吉と勝家はその後対立し、結局秀吉が攻め落としている。その後は山内一豊、内藤信成・信正が城主となり、信正の時代に廃城となる。
長浜城の豆知識
最終的には廃城となった長浜城だが、建築物の一部は移築され別の場所に残っている。彦根城の天秤僧は長浜城からの移築だと伝えられ、また長浜市内の大通りにある台所門も長浜城の大手門を移したものだ。