飫肥城

飫肥城は伊東氏と島津氏による日本史上最長の攻防戦

猷肥城は日向の地の武士団、土持氏が築城したのがはじまりとされる。時代は下って長禄2年(1458)、薩摩国の島津氏が、日向国の伊東氏南下に備え、祈納忠綜を歓肥城に入城させたことが発端となり、猷肥城は類稀なる長期攻防戦の舞台となる。両氏の争いは剖年余に渡り続けられるが、豊臣秀吉が行った「九州攻略」の功により伊東祐兵が飲肥を与えられ、幕末まで飲肥城を支配した。

江戸期を通して大規模な地震に3度襲われ、その度に修繕が行われている。貞享3年(1636)の伊東祐実統治のころには近世城郭が整備されるが、戦国期の縄張は残された。明治時代に建物は解体されるも、伝肥杉を使用し大手門を復元した。

典型的な南九州型

飲肥城は、巨大なシラス台地を空塀で区画した南九州型の城だ。熊本県の人吉城と同じく本丸などを織豊系の縄張で石垣化したものの、人吉城のそれとは遣い、本格的な改修ではなく、あくまでも表側のみにとどまっている。

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