竹田城の場所は中国と近畿の接点
竹田城は、標高353・7メートルの古城山の山頂にある総石垣の山城で、別名:虎臥城(とらふすしろ)とも呼ばれている。
竹田譲がある地は、京に通じる山陰道と播磨からの播但道(ばんたんどう)が交わる地点で、古くから交通の要衝であった。また、生野銀山も近くにあることで、古くから重要な拠点として認識されてきた。
永享3年(1431)、但馬国の守護である山名持豊(宗全)が築城に着手し、嘉吉3年(1443)に完成と伝えられている。織田信長の中国攻めで、天正8年(1580)羽柴秀長が落とし、秀長の配下である桑山重晴を竹田城に配した。桑山重晴が転封になると、天正13年(1585)、赤松広秀が城主となり、石積みを整備して、いまある姿に改修した。
竹田城の石の量は圧巻
竹田城は古城山の最高地点に本丸を置き、尾根筋の広がりに合わせて、北方向に二の丸、東の丸、北千畳の曲輪、南方向に南二の丸、南千畳の曲輪、西方向に花屋敷の曲輪が梯郭状に展開された縄張を持つ。遺構は石垣や竪堀などで、建物はないが周囲には視界を遮る樹木がなく、天守台に立つと大規模な総石垣の威容のすべてを見渡すことができる。
山城は自然の地形を利用して、必要最小限の工事で防御施設を造るという考えであるのに、この城の石垣に使われた石の量には圧倒される。石垣は野面積で、一局さが10メートルを超える場所もある。積まれた当時のままのところが多く、石積みの技術の高さを示している。
竹田城の見所はなんといっても、晩秋から早春にかけての早朝、円山川に発生する川霧に浮かぶ威容である。向いの立雲峡から見る、川霧の雲海に石垣群が浮かぶ様はまさに天空の城で、山城マニア以外にも多く人を魅了しているのが竹田城です。