加藤清正と並んで築城名人に挙げられるのが藤堂高虎だろう。
近江の土豪の子として生まれ、長じて浅井長政に仕えた。しかし、長政が織田信長によって滅ぼされると主を替える。その後は、何度も主を替えることで生き抜いた武将であった。生き残るための処世術として、徳川家康の下では築城術を駆使したともいえるだろう。
豊臣恩顧の大名出身でありながらも徳川家康に重用された。譜代の家臣同筈の扱いだったという説もある。特に築城に関しては、徳川幕府が命じた天下普請の城の縄張を担当するほど信用が厚かったのだ。自分の居城今治城の天守を、天下普請で担当した丹波亀山城の天守として差し出すなど信頼を得るための努力を惜しまなかったからであろう。
高虎の城も清正の城同様に、石垣に特徴がある。清正の反りのある石垣とは対照的な直線の石垣だ。高石垣とも呼ばれる石垣の高さは、最大で堀底から天辺まで約30メートルにも及ぶ。さらに屏風折れと呼ばれる、折れを多用しているのも高虎流である。
また、最初に大修築を行った板島丸串城(後の字和島城)や自分の居城として築いた今治城では、巧みに海を縄張に取り入れている。他の津城や伊賀上野城にも広大な堀とそれを取り囲む高い石垣を築いており、水を意識して縄張に取り込む武将であったのであろう。また、史上初の層塔型天守は、今治城であったとされている。層塔型天守は、統一した部材を用いて建てることができる。それまでの望楼型天守に比べて格段に短い工期での築城を可能にしたのだ。加藤清正が長い時間をかけて難攻不落の名城を築いたのに対し、高虎が短期間にいくつもの城を築けたのは、こうした技術革新を行ったからではないだろうか。