七福神の由来|七福神の名前や意味を紹介しています

甲胃をまとい仏教の守護神に

釈尊の四人の従者

仏教が誕生した時には、仏像を拝む習俗はなかった。釈尊は各自が修行によつて、どちらにも偏らない中庸の心を持ち「慈悲」を行なえと説いた。そのため原始仏教と呼ばれる最初の仏教の教団は、自ら考える修行者の集まりの形をとつていた。

ところが釈尊が亡くなった約500年後にあたるクシャナ朝(1―3世紀)の時代から、仏像が作られるようになった。仏像を中心とするクシャナ朝特有のギリシャ文化の影響を受けた美術は、ガンダーラ美術と呼ばれる。このあと原始仏教より安易な仏像を拝んで御利益を求める大乗仏教が発展していった。

クシャナ朝で製作された四天王像は、 マガタ国の王子であった時の釈尊に仕えた四人の従者の姿をかたどつたものといわれた。

この四天王像がシルクロードを伝わっていくうちに、厳しい武人の姿に変わっていったのである。

ホータン国の兜跛(とばつ)毘沙門天像

シルクロードのタリム盆地(中国の新彊ウイグル自治区にある)南縁に、ホータン国という国があった。東西の交易で栄えた国で、中国では干閲国と呼ばれた国である。

大乗仏教がクシャナ朝から伝わったあと、この国で毘沙門天信仰が盛行し、ホータン国王が昆沙門天の子孫と称するほどになった。玄失の『大唐西域記』に、昔子供のないホータン王が昆沙門天に祈ったところ、毘沙門天像の額から子供が現われて王の後嗣ぎになったという話が見える。ホータン国で昆沙門天の姿は、武装した兜跛昆沙門天像となった。これはローマ風の鳥記をかぶり、ペルシア風の甲冑を身につけたものである。

鳥冠は一対の鳥が羽根を広げた形をしたものであり、ペルシア風の甲冑は外套のようなつくりをとる。兜跛毘沙門天像の姿は、クシャナ朝のガンダーラの流れをひく仏像と明らかに異なる意匠(デザイン)をとつている。

ホータンでは、王家の先祖といわれる毘沙門天が、国土守護の仏とされた。この習俗がシルクロードを西進し、中国の人びとも武人姿の昆沙門天を単独で護国の仏、戦勝をもたらす仏として信仰するようになった。

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