寺院の食堂で大黒天を祭る
寺院の中の、僧侶が食事をする建物を、食堂という。この食堂で大黒天の像を祭る中国の風習は、平安時代はじめに最澄によつて日本に伝えられた。
このあと大黒天信仰は、各地の寺院にじわじわと広がっていった。福岡県太宰府市の観世音寺に、日本最古の平服姿の大黒天像がある。
それは平安時代末にあたる康治二年(1143)に、観世音寺の食堂に安置されたものだとする記録がある。この大黒天像は木像である。立った姿の大黒天が左手で持った袋を左肩に背負い、右手は腰のあたりで印を結んでいる姿が彫られている。
しかし大黒天が福の神として庶民に祭られるようになる室町時代より前には、このような平服姿の大黒天像は、そう多くない。寺院で祭られた大黒天像の大部分は、武装した武神の形をとつている。武装姿の大黒天像は江戸時代まで作られているが、庶民の間に福の神として広まった大黒天像は平服姿の像から発展したものである。
武装形の大黒天は鎧をつけて、右手に宝棒という武器を携え、左手に金嚢という財布を持っている。武器で武神であることを表わし、僧侶の食物をまかなうことを金嚢で表わしたのである。
庶民に広がる大黒天信仰
貴族のための祈躊、呪術、占術を主な職務とした平安時代の有力寺院は、閉鎖的な世界であつた。しかし鎌倉時代に入ると、鎌倉新仏教と呼ばれる庶民を布教の対象とした六つの新たな宗派が生まれた。
この新仏教の中の浄土真宗は、それまで禁じられていた僧侶の妻帯を認めた。僧侶の妻は、「梵妻(ぼんさい)」と呼ばれた。この梵妻が、室町時代に「大黒」となった。寺院の台所で大黒天が祭られていたので、台所で働く僧侶の妻が大黒天に代わって食を扱うものとされたためである。
室町時代に、鎌倉新仏教と呼ばれる六宗派の中の臨済宗や曹洞宗の寺院(禅寺)の僧侶があれこれ工夫して、質の高い精進料理を作り上げていった。臨済宗と曹洞宗は人びとに座禅を勧めたので、禅宗と総称されている。室町時代に、信者が禅の修行に来て寺院で食事を振る舞われる場面がふえていった。そのためこの時期から、京都の商工民が寺院にならつて食をつかさどる大黒天を祭るようになっていったのである。