義浄と『金光明最勝王経』

前項にあげた『金光明最勝王経』は、唐代の学問僧、義浄が中国語に訳して、唐の知識人に紹介した仏典である。この経典は、「護国経典」などと呼ばれて、日本の貴族に好まれたものである。

『金光明最勝王経』には、「この経典を読誦すれば四天王などの仏が国家を守る」と記されている。そのために聖徳太子は、四天王寺を建立して『金光明最勝王経』を読誦させた。

奈良時代の聖武天皇は、金光明四天王護国寺という正式名称をもつ国分寺を日本全国に建てさせた。義浄のはたらきが、古代日本に大きな影響を与えたのである。

中国の弁財天

義浄は六七一年にインドに渡り、そこに20年余り滞在したのちに中国に帰国した。かれの記した『大唐西域求法高僧伝』によつて、義浄がインドで苦労しながら意欲的に勉強していたありさまが知られる。

このような義浄の心の支えとなったのが、弁舌の仏、知恵の仏としての弁財天だったのではあるまいか。『金光明最勝王経』には、吉祥天と弁財天の御利益について詳しく記した部分もある。

しかし弁財天信仰が広まったのちの中国では、知恵の仏ではなく財運をもたらす仏としての弁財天の役割が強調されるようになっていった。インドではさまざまなサラスバティー像が作られた。ところが、中国で弁財天は宝冠(宝石で飾った冠)をかぶり、八本の手に宝珠(焔の装飾が付いた立派な珠)、輪宝(輪の形の宝器)などを持つ富裕の神の姿に変わった。このような中国における弁財天の変貌によつて、日本の福の神としての弁財天信仰がつくられることになった。