吉祥天と毘沙門天
奈良時代から平安時代にかけての貴族たちは、吉祥天と弁財天を美しい女性の仏として好んでいた。ところが鎌倉時代以後に吉祥天信仰が後退して、弁財天信仰に吸収されていった。
吉祥天は鬼子母神(子供を守る仏)の子で、昆沙門天の妻だとされている。中国の唐代には吉祥天信仰が盛んで、中国の貴婦人の姿をして左手に宝珠を持った吉祥天像が多く作られた。
奈良市東大寺の法華堂には、本尊の不空絹索観世音像の後ろに八臀(八本の腕を持つ)弁才天立像と吉祥天立像が安置されている。この例をはじめとして、弁財天(弁才天)と吉祥天がともに祭られる場合が多くみられる。これは、弁財天と吉祥天が財運を授けると説く『金光明最勝王経』の影響によるものであろう。
吉祥天信仰の後退
平安時代以後に、神仏習合が盛んになった。これによつて庶民に身近な神様と同一のものとされた仏の信仰が広まっていったが、吉祥天は日本の神様と習合できなかった。そのために吉祥天信仰は、庶民にまで普及しなかった。
東京の吉祥寺(文京区、武蔵野市)などの吉祥天を本尊とする寺院は確かにある。しかし吉祥天信仰は鎌倉新仏教とも結びつかず、しだいに忘れられていった。これに対して弁財天は、さまざまな形で神仏習合して広まった。かつて美しい女性の仏として、弁財天と吉祥天が祭られていたが、美しい女性の仏を好む吉祥天の信者まで吉祥天信仰の後退によつて、弁財天の信者の集団に吸収されることになったのである。