宇賀神と弁財天が習合する

鎌倉時代に宇賀神という、豊穣や商売繁昌をもたらす神様の信仰が流行した。この宇賀神が、稲荷神社の祭神である宇迦之御魂神と同一の神であると説明されることもある。

『古事記』の系譜は、宇迦之御魂神は素喪鳴尊の子神の中の一柱とする。宇賀神信仰が広まってまもない時期に、宇賀神は弁財天と神仏習合した。

鎌倉市の銭洗弁天は、宇賀福神社の別名をもつが、ここは宇賀神と習合した弁財天を祭る神社であった。

宇賀神と習合した弁財天を、宇賀弁才天と呼ぶこともある。宇賀弁才天は、天女の姿で八本の腕を持ち、頭の上に老人の顔をした白蛇をのせているといわれた。この説明に従えば、宇賀弁才天は二本の腕で琵琶を弾く弁財天と異なる形の弁財天となる。

白蛇を従えた弁天様

鎌倉時代の宇賀弁才天信仰には、密教からくる呪術的性格が強くみられた。秘儀を行なって宇賀弁才天を祭れば、思いのままに福財を得られるといわれたのだ。このような宇賀弁才天の呪的要素は、かつて「三弁才天」と言われた厳島、竹生島、江の島をはじめとする弁財天がらみの神社に広まっていた。

しかし明治時代はじめの神仏分離によつて、弁財天を祭る神社の密教的性格は、一掃された。

鎌倉の銭洗弁天は、もとは涌き水の水源で水を授けてくれる土地の守り神を祭る神社であったと考えられる。そこに宇賀神信仰の要素が伝わり、さらに土地の神が神仏習合で弁財天になっていった。

古くは銭洗弁天のもとになった土地の神の神社の信者が、そこの境内の洞窟に出るきれいな涌き水で体を清める祓いを行なっていたのであろう。そして財運の神である弁財天が祭られるようになったのちに、銅銭を洗う習俗が作られたとみられる。しかしそれは本来は金儲けのために犯したさまざまな罪や機れを清めるもので、銭を何倍にもふやす呪術ではなかった。