毘沙門天に戦勝を願う

中国に、次のような記録がある。「唐の天宝年中(742―756)に、西域(シルクロード沿いの中央アジア)の異民族の大軍が唐に侵攻してきた。この時皇帝が不空という学問僧に昆沙門天を祭らせたところ、昆沙門天の第二子である独健が戦場に現われて唐軍を励まして敵を敗走させた」そのため皇帝は、国を防衛するすべての城の西北隅に毘沙門天像を安置させたとある。このような話が中国に、多く伝わっている。不空は占術に通じた僧侶としても知られ、その学問は日本の空海にも大きな影響を与えた。
日本にも、武神としての昆沙門信仰が伝わった。聖徳太子は四天王に、物部氏との戦いの戦勝を祈った。平安京が建設されたあと、朝廷は京都の北方の呪的な守りとするために、昆沙門天を祭る鞍馬寺を重んじている。

京都の商工民と毘沙門天

武神として毘沙門天信仰は江戸時代まで受け継がれるが、室町時代後半の京都で福の神としての昆沙門天信仰が一挙に広がった。多くの者が、財運を求めて鞍馬寺を参詣するようになったのである。京都の相国寺の記録である『蔭涼軒日録』長享〓一年(一四八八)六月三日の箇所に、次のような記述がある。

「鞍馬に参って、帰りに昆沙門天像一体を買い求めた。今日は庚寅という毘沙門天に縁のある日だつたために貴賤男女二万人ほどが鞍馬寺を詣でたと聞いた」この記事は相国寺の書記を担当する何人もの僧侶が、寺務のありさまや日常の見聞を長期にわたつて書き継いだものの一部である。

直接の原因は明らかではないが、「鞍馬寺を信仰する者が幸運なことで金持ちになった」といった噂などがあったのだろう。その噂をきつかけに、鞍馬寺が福の神として注目されるようになったと考えてよい。

昆沙門天がもとがインドの財運の神であったことも、昆沙門天を福の神にする一因となった。『毘沙門天王経』という仏典に、昆沙門天を信仰すれば、「財宝富貴自在の福利を得る」とある。昆沙門天の人気が高まったことによつて、鞍馬寺は自ら布教しなくても多くの信者を集めた。