福禄寿の出現
北宋の元祐年間(1086―93)に、老人星の化身とされる一人の老人が都(開封)に現われたと伝えられている。その老人は身長がわずか三尺(90センチメートル)で、体と頭とが同じ大きさであったという。
老人は整った顔で長い髯を生やし、市に出て占いをして生計をたてていた。銭が入ると、酒代にした。老人はしばしば自分の頭を叩いて、「我が身は、寿命を益する聖人である」と言っていたという。
老人の名前は、伝わっていない。しかもこの占いをした老人の伝承の、どこまでが事実であるかも明らかではない。
しかし「私は南極星の化身である」と自称する異相の老人が存在したことによつて、福禄寿信仰が起こった可能性は高い。彼がのちに信仰の対象とされて、北宋後の南宋代(1127―1279)あたりにその不思議な老人をもとにした福禄寿の絵が描かれるようになったのであろう。
泰山の山の神、老子と南極星
道教の開祖である老子は、中国で広く祭られていた。この老子が、仙人になって不老不死になったとする伝えもあり、老子は長寿をもたらす神としても祭られた。そのため老子の信仰と南極星の信仰とが融合して、寿老人という神がつくられた。寿老人像は老子像に似た、長い髯の上品な老人の姿に描かれた。北宋の時代に、寿老人が開封に現われたとする次のような伝説もある。
「開封の町にただ者と思えない神々しい威厳を持つ老人が現われたので、皇帝が宮殿に招き入れた。そうしたところ老人は酒を七樽も飲み干して姿を消した。皇帝が不思議に思っていると、翌日になって天文台の長官が、『昨夜、南極星が帝星のそばで見えなくなった』と報告してきた。これによつて皇帝は、先日の品の良い老人が寿老人であると知った」この話は後世の人間が、寿老人の権威を高めるために創作したものであると考えられる。
鎌倉時代の日本の禅僧は、南宋のさまざまな文化を学んでいた。中国の南宋代に別々のものとして祭られていた福禄寿と寿老人の信仰は日本ではまず南宋との関わりの深い禅寺に伝えられた。
福禄寿は室町時代に七福神とされたが、寿老人はそれより遅れて江戸時代なかば過ぎに七福神に加えられた。